Qiskit自宅実践ガイド

Qiskitを用いた実機に近いノイズシミュレーション:量子誤り緩和戦略の実践

Tags: Qiskit, 量子シミュレーション, ノイズモデル, エラー緩和, 量子コンピュータ

はじめに

量子コンピュータが実用化に向けて進展する中で、ノイズは依然としてその性能を制限する大きな要因です。現在の量子デバイスは「NISQ(Noisy Intermediate-Scale Quantum)デバイス」と呼ばれ、ノイズの影響を避けることはできません。このような状況下で、量子アルゴリズムの実用性を探るためには、ノイズが計算結果に与える影響を正確に理解し、可能な限りその悪影響を緩和する技術が不可欠となります。

本記事では、QiskitのシミュレータであるQiskit Aerを用いて、実機に近いノイズ環境を模擬する方法について詳細に解説します。特に、カスタムノイズモデルの構築に焦点を当て、様々な量子エラーをシミュレーションに組み込む実践的な手法を紹介します。さらに、ノイズ環境下で得られたシミュレーション結果から、計算の精度を向上させるための「量子誤り緩和(Error Mitigation)」戦略をどのように適用するかについても、具体的なコード例を交えて議論します。理論的な背景とQiskitでの具体的な実装を結びつけることで、読者の皆様が量子アルゴリズムの研究・開発をより実践的に進めるための助けとなることを目指します。

1. Qiskit Aerにおけるノイズモデルの基礎

Qiskit Aerは、量子回路をシミュレーションするための強力なバックエンドを提供します。理想的なシミュレーションはもちろんのこと、実機の振る舞いを模倣するための多様なノイズモデルをサポートしている点が特徴です。量子ノイズは、主に量子ビットのデコヒーレンス(量子ビットが環境と相互作用することで量子情報が失われる現象)や、ゲート操作の不完全性によって引き起こされます。

Qiskit Aerでは、qiskit.providers.aer.noiseモジュールを使用してノイズモデルを構築します。このモジュールには、基本的なノイズの種類(例:減衰、脱偏光、フェイズダンプ)を表現するためのクラスが用意されており、これらを組み合わせて任意の複雑なノイズ環境を定義することが可能です。

1.1. 代表的な量子エラー

これらのエラーを、特定の量子ゲートや特定の量子ビットに適用することで、より現実的なシミュレーションが可能になります。

2. カスタムノイズモデルの構築と適用

Qiskit Aerのノイズモデルは、NoiseModelクラスを用いて構築します。このクラスに、先述のような量子エラーを「追加」していくことで、独自のノイズ環境を定義できます。

2.1. シンプルなノイズモデルの例

ここでは、単一の量子ビットに対するユニタリゲート(例:Hゲート、Xゲート)に脱偏光ノイズを適用する例を示します。

from qiskit import QuantumCircuit, Aer, transpile
from qiskit.providers.aer.noise import NoiseModel, depolarizing_error
from qiskit.visualization import plot_histogram

# 1. ノイズモデルの定義
# ゲートに対する2%の脱偏光ノイズを定義
p_depol = 0.02
depolarizing_err = depolarizing_error(p_depol, 1) # 1量子ビットゲートに適用

# NoiseModelオブジェクトの初期化
noise_model = NoiseModel()

# 'h'ゲートと'x'ゲートに脱偏光ノイズを追加
noise_model.add_quantum_error(depolarizing_err, ['h', 'x'], [0]) # 量子ビット0に適用

print("--- 構築されたノイズモデル ---")
print(noise_model)

# 2. 量子回路の構築
qc = QuantumCircuit(1, 1)
qc.h(0) # 量子ビット0にHゲート
qc.measure(0, 0) # 測定

print("\n--- 構築された量子回路 ---")
print(qc.draw(output='text'))

# 3. ノイズモデルを適用したシミュレーション
simulator = Aer.get_backend('aer_simulator')

# シミュレーションオプションを設定
# 指定したノイズモデルを適用
job = simulator.run(transpile(qc, simulator), noise_model=noise_model, shots=1024)
result_noise = job.result()
counts_noise = result_noise.get_counts(qc)

# 4. 理想的なシミュレーション(ノイズなし)
job_ideal = simulator.run(transpile(qc, simulator), shots=1024)
result_ideal = job_ideal.result()
counts_ideal = result_ideal.get_counts(qc)

print("\n--- ノイズありシミュレーション結果 ---")
print(counts_noise)
print("\n--- 理想シミュレーション結果 ---")
print(counts_ideal)

# 結果の比較(可視化を推奨)
# plot_histogram([counts_ideal, counts_noise], legend=['Ideal', 'Noisy'])

上記のコードでは、まずdepolarizing_error関数を用いて2%の脱偏光ノイズを定義し、それをNoiseModelに追加しています。add_quantum_errorメソッドの第2引数にはノイズを適用したいゲートのリストを、第3引数にはノイズを適用したい量子ビットのリストを指定します。これにより、特定のゲートと量子ビットに限定してノイズを組み込むことが可能になります。

シミュレーションを実行する際には、simulator.run()メソッドのnoise_model引数に構築したnoise_modelオブジェクトを渡すだけです。この結果、ノイズの影響を受けた測定結果(counts_noise)が得られ、理想的なシミュレーション結果(counts_ideal)と比較することで、ノイズが計算に与える影響を定量的に把握できます。一般的に、ノイズが存在すると、理想的な状態からの逸脱、すなわち期待値の減少や分布の広がりとして観測されます。

2.2. より複雑なノイズモデルの構築

複数の量子ビットに対するノイズや、ゲートの依存関係を考慮したノイズも定義できます。例えば、2量子ビットゲート(CNOTなど)に対するノイズは、より複雑なエラーを引き起こす可能性があります。

from qiskit.providers.aer.noise import ReadoutError, pauli_error, thermal_relaxation_error

# 読み出しエラーの追加
# 量子ビット0が0であるときに1と読み取る確率0.01、1であるときに0と読み取る確率0.05
readout_error = [[0.99, 0.01], [0.05, 0.95]]
noise_model.add_readout_error(ReadoutError(readout_error), [0])

# 熱緩和エラーの追加(現実的なデコヒーレンスを模倣)
# T1 (エネルギー緩和時間), T2 (位相緩和時間), ゲート時間
t1 = 10000 # ns
t2 = 8000  # ns
gate_time = 100 # ns
thermal_error_1q = thermal_relaxation_error(t1, t2, gate_time, True)
noise_model.add_quantum_error(thermal_error_1q, ['rz', 'sx', 'x'], [0]) # 任意の単一量子ビットゲートに適用

print("\n--- より複雑なノイズモデル ---")
print(noise_model)

上記のように、add_readout_errorで測定エラーを、thermal_relaxation_errorで量子ビットの熱緩和に起因するノイズを追加できます。これらのノイズモデルを組み合わせることで、実際の量子デバイスにより近いシミュレーション環境を構築することが可能になります。

3. 量子誤り緩和技術の実践

ノイズのあるシミュレーションから得られた結果は、理想的な結果から乖離しています。量子誤り緩和は、量子ビットやゲート自体を物理的に改善する「量子誤り訂正」とは異なり、ソフトウェア的な手法やデータの後処理によって、ノイズの影響を軽減し、最終的な結果の精度を向上させることを目指します。

Qiskitエコシステムでは、qiskit-experimentsのようなライブラリや、qiskit-ibm-runtimeサービス内でエラー緩和機能が提供されていますが、ここではQiskit Aerのシミュレーション結果を基に、基本的なエラー緩和の概念を理解するための実践的なアプローチとして「ゼロノイズ外挿 (Zero-Noise Extrapolation, ZNE)」の考え方を紹介します。

3.1. ゼロノイズ外挿の概念とシミュレータでの応用

ゼロノイズ外挿は、異なるノイズレベルで回路を実行し、その結果からノイズがゼロの場合の期待値を外挿によって推定する手法です。シミュレータにおいては、ノイズモデルの強度を意図的に調整することで、この「異なるノイズレベル」を実現できます。

具体的なステップは以下の通りです。 1. ノイズレベルの増幅: 基本となるノイズモデルを作成し、そのノイズの強度を何らかの「スケールファクタ」で増幅します。例えば、各ゲートに適用されるエラー確率を線形に増加させるなどが考えられます。 2. 複数のノイズレベルでのシミュレーション: 増幅されたノイズモデルを用いて、同じ量子回路を複数回シミュレーションします。 3. 結果の外挿: 各ノイズレベルで得られた測定結果(例えば、特定の期待値)をプロットし、ノイズレベルがゼロになる点に線形または非線形に外挿することで、ノイズのない理想的な期待値を推定します。

この手法は、ノイズのない結果を直接得ることが困難なNISQデバイスにおいて、期待値の精度を向上させる有効な手段です。

3.2. ゼロノイズ外挿の簡易的な実装例

ここでは、簡単な回路に対して脱偏光ノイズのスケールを変化させ、結果を外挿する概念をコードで示します。

import numpy as np
import matplotlib.pyplot as plt # 可視化のために必要
from qiskit import QuantumCircuit, Aer, transpile
from qiskit.providers.aer.noise import NoiseModel, depolarizing_error

# 量子回路の定義(例:Hゲートを適用した後のZ期待値)
qc_zne = QuantumCircuit(1, 1)
qc_zne.h(0)
qc_zne.measure(0, 0)

# 異なるノイズスケールファクタ
noise_factors = [0.0, 0.5, 1.0, 1.5, 2.0] # ノイズ強度をスケール

# 各ノイズファクタでの期待値を格納するリスト
expectation_values = []

# ZNEのためのシミュレーション関数
def run_zne_simulation(circuit, base_depolarizing_prob, scale_factor, shots=1024):
    """指定されたスケールファクタでノイズモデルを構築し、シミュレーションを実行する"""
    if scale_factor == 0.0:
        # ノイズなしの理想シミュレーション
        noise_model = None
    else:
        # ノイズをスケールしてノイズモデルを構築
        scaled_p_depol = base_depolarizing_prob * scale_factor
        scaled_depolarizing_err = depolarizing_error(scaled_p_depol, 1)
        noise_model = NoiseModel()
        noise_model.add_quantum_error(scaled_depolarizing_err, ['h'], [0]) # Hゲートに適用

    simulator = Aer.get_backend('aer_simulator')
    job = simulator.run(transpile(circuit, simulator), noise_model=noise_model, shots=shots)
    result = job.result()
    counts = result.get_counts(circuit)

    # ここでは、Z期待値を単純に (P(0) - P(1)) として計算
    # P(0)は基底状態0の確率、P(1)は基底状態1の確率
    p0 = counts.get('0', 0) / shots
    p1 = counts.get('1', 0) / shots
    exp_val_z = p0 - p1
    return exp_val_z

# ベースとなる脱偏光ノイズの確率
base_p_depol = 0.01

# 各ノイズファクタでシミュレーションを実行し、期待値を収集
for factor in noise_factors:
    exp_val = run_zne_simulation(qc_zne, base_p_depol, factor)
    expectation_values.append(exp_val)
    print(f"Noise Factor: {factor:.1f}, Z Expectation Value: {exp_val:.4f}")

# 結果の外挿
# 簡単な線形回帰を使用
# ノイズファクタと期待値の関係をプロットし、y切片を推定
# plot_expected_values = [v for v in expectation_values if not np.isnan(v)]
# plot_noise_factors = [f for i, f in enumerate(noise_factors) if not np.isnan(expectation_values[i])]

# フィッティングと外挿
# np.polyfitは、多項式回帰を行う関数
# degrees=1 は線形回帰を意味
if len(noise_factors) > 1 and len(expectation_values) > 1:
    z_factors = np.array(noise_factors)
    z_values = np.array(expectation_values)

    # 線形回帰でフィッティング
    fit_coeffs = np.polyfit(z_factors, z_values, 1)

    # ノイズレベル0での期待値(y切片)
    zne_expected_value = fit_coeffs[1]
    print(f"\nZero-Noise Extrapolated Z Expectation Value: {zne_expected_value:.4f}")

    # 可視化(参考情報、実際の図は生成しない)
    # plt.figure(figsize=(8, 6))
    # plt.plot(z_factors, z_values, 'o', label='Simulated Values')
    # plt.plot(np.linspace(0, max(z_factors), 100), np.polyval(fit_coeffs, np.linspace(0, max(z_factors), 100)), '-', label='Linear Fit')
    # plt.axvline(0, color='gray', linestyle='--', label='Zero Noise Level')
    # plt.axhline(zne_expected_value, color='red', linestyle=':', label='ZNE Result')
    # plt.legend()
    # plt.xlabel('Noise Factor')
    # plt.ylabel('Z Expectation Value')
    # plt.title('Zero-Noise Extrapolation for Z Expectation Value')
    # plt.grid(True)
    # plt.show()

このコードでは、run_zne_simulation関数を定義し、ベースとなる脱偏光確率にscale_factorを乗じることで、ノイズの強度を変化させています。scale_factor=0.0の場合はノイズなしの理想シミュレーションとして扱います。得られた各ノイズスケールでの期待値をnumpy.polyfitを用いて線形回帰し、ノイズファクタが0の点に外挿することで、ノイズ緩和された期待値を推定します。

実際の研究では、より洗練された外挿モデル(例:指数関数的減衰など)や、複数の回路パターンを用いた緩和手法が用いられます。Qiskitコミュニティが開発しているqiskit-experimentsライブラリは、これらの高度なエラー緩和実験を体系的に実行するためのフレームワークを提供しており、将来的に活用を検討すべきでしょう。

4. シミュレーション結果の解析と解釈

シミュレーションが完了すると、qiskit.result.Resultオブジェクトが得られます。このオブジェクトからは、測定結果のカウント数だけでなく、状態ベクトルや密度行列といったより詳細な量子状態の情報も取得できます。

4.1. Resultオブジェクトからの情報取得

ノイズシミュレーションの場合、状態は純粋状態ではなく混合状態となるため、get_statevector()の代わりに、AerSimulatorのメソッドであるget_density_matrix()を利用して密度行列を取得することができます。密度行列は、混合状態を含む一般的な量子状態を記述するための強力なツールです。

from qiskit import QuantumCircuit, Aer, transpile

# 密度行列を取得するための回路
qc_dm = QuantumCircuit(1)
qc_dm.h(0)
# 測定は含めない(測定すると状態が崩れるため)

# ノイズモデル
noise_model_dm = NoiseModel()
noise_model_dm.add_quantum_error(depolarizing_error(0.05, 1), ['h'], [0])

simulator_dm = Aer.get_backend('aer_simulator')

# 密度行列シミュレーション
# method='density_matrix' を指定
job_dm = simulator_dm.run(transpile(qc_dm, simulator_dm), 
                          noise_model=noise_model_dm, 
                          method='density_matrix')
result_dm = job_dm.result()

# 密度行列の取得
density_matrix = result_dm.get_density_matrix(qc_dm)
print("\n--- ノイズありシミュレーション後の密度行列 ---")
print(density_matrix)

# 理想状態の密度行列(基底状態|0>と|1>の重ね合わせ)
qc_ideal_dm = QuantumCircuit(1)
qc_ideal_dm.h(0)
job_ideal_dm = simulator_dm.run(transpile(qc_ideal_dm, simulator_dm), method='density_matrix')
result_ideal_dm = job_ideal_dm.result()
ideal_density_matrix = result_ideal_dm.get_density_matrix(qc_ideal_dm)
print("\n--- 理想シミュレーション後の密度行列 ---")
print(ideal_density_matrix)

# ノイズによるコヒーレンスの減少を比較(トレース距離や忠実度などで定量化可能)
# from qiskit.quantum_info import state_fidelity
# fidelity = state_fidelity(ideal_density_matrix, density_matrix)
# print(f"\nFidelity between ideal and noisy density matrix: {fidelity:.4f}")

密度行列を解析することで、量子状態の純粋性やコヒーレンスの度合いを定量的に評価できます。例えば、理想的な状態の密度行列とノイズのある状態の密度行列との間で「忠実度(Fidelity)」を計算することで、ノイズがどれだけ状態を劣化させたかを把握することが可能です。

4.2. シミュレーション性能の改善とデバッグ

大規模な回路や複雑なノイズモデルをシミュレーションする際には、計算速度やメモリ使用量がボトルネックとなることがあります。

デバッグに関しては、QiskitはPythonのデバッグツールと統合可能です。 * 中間状態の確認: 回路の途中にsave_statevector()save_density_matrix()命令を挿入し、部分的な回路の実行後に量子状態を確認することで、意図しないゲート操作やノイズの影響を特定できます。 * ノイズモデルのステップバイステップ確認: 複雑なノイズモデルの場合、各エラーが正しく適用されているかを確認するために、簡単なテスト回路でそれぞれのエラーを個別に適用し、結果を検証することが有効です。 * エラーメッセージの注意深い読解: QiskitやAerが返すエラーメッセージは、問題の特定に役立つ多くの情報を含んでいます。特にトレースバックは、コードのどの部分で問題が発生しているかを示します。

まとめ

本記事では、Qiskit Aerを用いた実機に近いノイズシミュレーションの構築方法から、量子誤り緩和戦略の適用、そしてシミュレーション結果の詳細な解析方法までを網羅的に解説しました。

量子コンピュータ研究の最前線では、ノイズへの対処が不可欠です。本記事で紹介したQiskit Aerを用いたシミュレーションとエラー緩和の手法は、量子アルゴリズムの実用性を探求し、将来のフォールトトレラント量子コンピュータに向けた研究を進める上で強力なツールとなるでしょう。読者の皆様がこれらの知識と技術を自身の研究や学習に活かし、量子情報科学の発展に貢献されることを期待しております。